第44弾:選手がみせた、その横顔 34
Inside the RICOH BlackRams
2012.06.08
リコーブラックラムズ(リコーラグビー部)を支える選手たちの、ラガーマンとしての思いや、これまでのキャリアに関するエピソードをご紹介します。リコーというラグビーチームは、彼らの個性と歩んできた道程、積みあげてきた経験が混ざりあって、今の姿があります。
飛躍を懸けた年のケガ、自身で乗り越えさらなる成長へ(星野将利)
長野県の豊かな自然の中で育った星野将利。高校でラグビーを始めた兄の背中を追って、中学3年生のときにサッカーからラグビーに転向した。初めての試合でトライを挙げる活躍をして、ラグビーの虜になった。「子供のころから兄が大好きで、何でも兄の真似をしたかった。自分でもラグビーは向いているなと感じていました」。
両親も心配されるほどの潔癖症で、接触の多いスポーツは無理だろうと言われたこともあったが、不思議とラグビーだけは大丈夫だった。高校3年生になると、ラグビーの強豪校から片手では足りない数のオファーが届いた。料理人だった父と同じ道を歩むことも考えていたが、高校の監督、両親、そして早明戦を観てラグビーを始めた兄に勧められ、セレクションを経て明治大学に進学。以降順調に才能を伸ばし、トップリーグの舞台まで駆け上がってきた。
入部3年目の2010-11シーズン(前々年度)、星野将利は開幕戦を除く12試合、ワイルドカードトーナメント2試合に先発出場してトップリーグ初のトライを含む6トライを挙げ、ファンの皆さんに存在を強くアピールした。星野の迷いのない大胆な仕掛けに、スタンドは何度も沸いた。その翌シーズンの春、星野は前十字靭帯を切った。
「リコーに入って4年目、25歳のときでした。25歳~28歳くらいまではラグビー選手として一番成長できる時期だと考えていました。ちょうど日本A代表からも呼ばれて、今年はいい流れでいけそうだ、というタイミングのケガ。気持ちの整理をつけるまでに時間がかかりました」。膝にメスを入れて走力に影響がでないかという不安。飛躍を誓った一年を確実に失う。ギリギリまで手術を拒んだ。
「でも、自分のステップの踏み方だと、手術せずにプレーすると間接がはずれる可能性があるとトレーナーから告げられて、手術を決意しました」。飛躍を懸けたシーズンは、リハビリのシーズンに変わった。「放心状態でしたよね。最初はメンバーにも会いたくなかったです。家からも出たくなかった。でも、ケガしたその日に上京してきてくれた母親。そして滝澤(佳之)さんに支えられました。滝澤さんはすごくポジティブで、自分がどんなネガティブな聞き方をしても返ってくる言葉はシンプルで前向き。こんな考え方、ものの見方があるんだと『気づき』を得たことを鮮明に憶えています」。
ケガを受け入れた星野は、これからを見据えた。周囲は当然のように来シーズン以降の復帰を考えていたが、星野は「シーズン終盤には復帰する」という思いでリハビリに取組んだ。昨年11月にはランニングを開始。年明けには戦列に戻ってみせるつもりだったが、チームの方針でペースをセーブ。
「だからウェイトトレーニングばっかりやっていましたね。いまは我慢の時。グラウンドに戻ってこられた今は、逆に焦らないよう心がけています。走りまわっているのを見て『将利、楽しそうだな』とか言われるぐらいだから本当は動きたくてしょうがなかったですし、チームに戻ってきたことをチームメイトにアピールしたい気持ちはあります。でも、もう一度ケガをしたら本当に成長機会を逃すことになる。シーズンインまでは無理はしない」。チーム内の競争も激化しているが、「自分が競うべきは、いまは自分自身」と焦りを封印し続けた。
「自分の感情のコントロールが、前よりもできるようになったような気がします。それはラグビーにも生きると思っています」。ケガは不幸だったが、選手としての成長機会につなげた星野。一年のブランクが無駄ではなかったことをグラウンドで表現したい。
9月のトップリーグ開幕に照準を合わせ、虎視眈々と心身ともに準備を続ける日々はまだまだ続く。