第43弾:選手がみせた、その横顔 33
Inside the RICOH BlackRams
2012.06.01
リコーブラックラムズ(リコーラグビー部)を支える選手たちの、ラガーマンとしての思いや、これまでのキャリアに関するエピソードをご紹介します。リコーというラグビーチームは、彼らの個性と歩んできた道程、積みあげてきた経験が混ざりあって、今の姿があります。
好きな画家はゴッホ。模写で、高評価をもらったこともある芸術家肌(松本友介)
小学校1年生で既に身長135センチ、6年生のときには170センチに。体格のいい子供だった松本が、スポーツを勧められることは多かった。
「小学校1年生のとき、父に連れて行かれたのがラグビースクールでした。でも、最初はぶつかってばかりで何が面白いのかわからなかった。練習のある日曜日は、雨が降って練習が中止になるのを期待してたくらいだったんですよ」(笑) で、何をしていたかったというと「絵を描いていたかった」のだという。
「漫画やアニメのキャラクターを写して描くことから始めて。学校で描いた風景画で賞をもらったりもしました。小学校の頃はずっと描いていました。いつもペンだこができていました」
その後も「高校時代はゴッホの『自画像』の模写で高い評価をもらった」「大学時代も練習の合間に描いていた」などのエピソードからもわかるように、熱はずっと冷めなかった。「絵にはちょっと自信があるんです」という松本は、まさに芸術家肌の持ち主でもある。
ただ、絵は描きつつだったが、ラグビーの面白さも程なくわかるようになってきた。小学3年生のとき、年上の選手も交えたゲームでボールを持った松本は、年上選手を吹き飛ばしてのゲインを体験をする。
「気持ちよかった。それからだんだん、CTBの自分にボールが回されるようになって」。期待に応える喜びを知り、ラグビーに夢中になっていった。
中学校では部活動でラグビーをやりたいと私立の天理中学へ。 高校も系列の天理高校に進学してラグビーに打ち込んだ。両親らと大学ラグビーや社会人ラグビーを観に行く機会も多く、プレーを観て将来高いレベルでプレーしてみたいという夢も膨らんでいく。
「私が高校時代は、ラグビー界では箕内拓郎さん(現NTTドコモ)がすごい人気だったので、NO.8に憧れていました。ただ天理にはいい選手がたくさんいて競争は激しかった。それでPRに回ったんですけど」。しかし、コンバートは先見性のあるもので、松本は3年生のときにPRで高校日本代表入りを果たした。
大学は同志社大学へ。
「ひとりっ子だし、大学までは両親のいる地元の関西にいたい」と思って選んだ。大学では主にLOとしてプレーしたが、社会人チームへのアピールの機会でもある3年生の春に、松本は脱臼骨折してしまう。これまで、ラグビーでケガがほとんどなかった松本の初めての離脱だった。あきらめずその先をめざすべくアピールの機会を探った。その後、リコーのトライアウトを受けるチャンスをつかみ見事に合格。それから2年間、PRにポジションを戻し、社会人の世界で成長してきた。
「同志社大学では、大きなほうでしたけれど、今は見上げるほど大きい選手がたくさんいる。練習に対する集中力も高くて、時間は短いけれども皆が毎日の練習でしっかりチャレンジしている。自分はいいときと悪いときでプレーにムラがあると言われ続けてきたんですが、今の練習から、試合を意識する環境の中で、少しは改善されてきたと思う。まだまだですけど」
高校生の頃、松本はリコーの試合を観にいったことがある。山品博嗣監督らのプレーも目にしたそうだ。
「リコーラグビー部といえば、やはり黒。ブラックジャージのかっこよさは印象的」
ブラックジャージを着てトップリーグのピッチに立つこと。 芸術家肌の松本が描く3年目のシーズン。目標には一点の曇りもなく明確だ。」
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