森雄基選手 インタビュー

2008.08.29

 普段は決して無口ではない。きっとかしこまった会話が苦手なのだ。

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 リコーブラックラムズの新人フッカー(HO)森雄基は、インタビューの席でしばし苦笑した。「ここ、本当は格好良く書きたいんですよね」、「うまくまとめてください」と。

 ラグビーは半ば強引に始めさせられた。しかし、中学から高校と6年間通った啓光学園では、全国高校ラグビー選手権大会3連覇を達成する。その後進学した大東文化大学では主将を任された。おそらくその間、言語化しにくい感情を数多く抱いた。すらすら語ることは厳密に言えば不可能な感情を。

 それでも森は語った。まずは過去に某専門誌で受けたインタビューの改正から。

――ラグビーを始めたのは。

「小6で始めました。場所は大東ラグビースクール。それまでは、小1から相撲をしていました」

――「物心ついたときからラグビーをやっていた」という情報もあります。

「多分3歳くらいからボールを持たされていましたが 、プレー自体はしていなかったです」

――ボールを持たせていたのはお父さんですね。森選手がのちに入部する啓光学園ラグビー部のOBでした。

「小学校の頃から(自分に)ラグビーをやらせたい雰囲気でした。ラグビーに関しては熱いんです。自分と重ねている、みたいな」

――お父さんはいつまでプレーしていたのですか。

「高校までです。詳しくは聞いてないですけど、大学でもやろうと思っていたのにできなかったようです。自分が中途半端で終わったから、(息子に)やらせたかったんでしょう。で、最初は相撲を習わせておいて…(時期が来たらラグビーをやらせよう) 、という作戦だったと思います 」

――ラグビー、実際にやってみていかがでしたか。

「中学校から楽しくなりましたね。中学校から勝ち負けを意識するようになったから」

――中学からは啓光学園に。ラグビー部に入るため受験したそうですね。

「はい。入学してから男子校と気付きました、ははっ。練習では走ってました。中学では、吐くまで走り込みをして、試合したことしか覚えてない」

――よく辞めなかったですね。

「(啓光学園には)ラグビーで入ったから。練習がしんどくても、辞めたいとはあまり思わなかったですね」

――高校では3連覇。どうして強かったと思いますか。

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「徹底されたコミュニケーション、意識統一ですね。『ここに行けば左に誰かいる、こうすれば右にいる』と通じ合っていた。エリア、時間、点数、天候、風とか、(場面ごとに誰がどう動くべきか)決まってましたね。グラウンドで何回も練習するうちに、身体で勝手に覚えていました。誰が変わっても、同じ仕事ができるようになったんです」

――記虎敏和監督(きとらとしかず・現龍谷大学ラグビー部監督)は、どんな監督でしたか。

「普段は優しいんですよ。ただ、ラグビーに関しては冗談が言えない。気持ちが入ってないプレーは怒られました。フィフティ・フィフティ(一か八かの)パスとか、タックルミスとか」

――高校時代の試合で覚えているのは。

「3年生の東海大仰星戦(全国高校ラグビー選手権大会準決勝・2004年1月5日・近鉄花園ラグビー場・○=19対13)です。いい思い出というより、一番きつかった試合。ほんまに接戦だったんですよね(啓光学園は序盤先制点を奪われるも逆転、逃げ切る)。東海大仰星には、春に負けていたんです。お互い学校が近いから、主将の有田(幸平)も『枚方の町を歩けない、(東海大仰星の選手と)一緒になるから』と言っていた。その後仕返しという感じで練習して、リベンジです」

――そして、決勝進出。大分舞鶴高校に15対0で勝ち、その年での勇退が決まっていた記虎監督を胴上げした瞬間は。

「もう、何も言えないです。初めてラグビーで泣いたと思います」

――高校3年間で得たものは。

「コミュニケーションですね。人と人とのコミュニケーション。会社に入っても、コミュニケーションをしっかりしていこうと。あとは、気持ちですかね。いかに自分らが勝ちたいかという」

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――大学はシナリ・ラトゥ監督からの誘いもあり、大東文化大学へ。

「記虎監督経由で『大東文化に誘われてるけど、どうや』と。人生を左右するからぎりぎりまで考えた。で、ラグビーをするなら東京。大東文化に行こう、と」

――最後の後押しは。

「もう、親の情熱ですね。ラグビーをしてくれ、どうせラグビーやるなら東京でしてくれという。はははっ 」

――大学では、生まれて初めて主将という重責を担います。

「最初は心配でしたね、やっていけるのか。 初めての経験で、何をどうしたらいいのかわからない。負けたらダメというプレッシャーも、責任もあるじゃないですか。怖かったです。特にシーズンの初戦は不安でした。負けられへん、と(関東大学リーグ戦1部・対中央大学戦・2007年9月9日・熊谷ラグビー場・○=12対7)」

――100人超のチームで主将。大変さは。

「みんなの意見をひとつにまとめること。100人いれば100通りの意見がある。コミュニケーションを取って、一番いい選択肢を選ばないといけない。大変でしたね。決めたとしても、『本当にこれでいいのか』って思うじゃないですか。神経がきつかった」

――その経験は、今振り返ればどんなものですか。

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「今となっては楽しかった。滅多に経験できないじゃないですか。100何人をまとめるなんて」

 リコー入部は、多くの先輩選手と同様"選択肢"で決めた。祖父母からは常々「長男だから故郷に帰って来い」と言われていた。「リコーやったら関西に会社もあるんで、(引退後は)帰れる」という青写真を描いたのだ。無論、それはまだ先の話とし、「ラグビーのルールが(選手のフィットネスが問われる方向に)変わっている。走れて、かつ1対1のコンタクトに負けない身体づくりをしたいです」と、プレイヤーとしての決意を固めている。

 8月。悩んでいた。「最近、自分のプレーができていない。上手いことアピールできてない」と。合宿期間中に行われた練習試合でも、ラインアウトのスローイングがジャンパーと合わない場面が散見された。HOは個人プレーが少ないポジションだ。自身が最高のプレーができても、周囲がそれに呼応しないと"合格"にはならない。

 ただ、状況打開の糸口は明確だ。何より森自身、それを指し示すキーワードを何度も口にしている。「コミュニケーションですね」、「コミュニケーションを取って」と。

(文 ・ 向 風見也)

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