津田翔太選手 インタビュー

2008.08.07

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「スタンドオフ(SO)はチームを勝たせてナンボのポジションで、最低限の役割がチームを勝たせること。1点差でも、負けてしまうとSOの責任なんですよ。だからどうすればチームが勝てるのか、全員で協力して考える。ひとりが違うプレーをしてしまうと、そこからチームがまとまらなくなってしまう」

 ラグビーを始めた頃からスタンドオフ(SO)一筋、今季からリコーブラックラムズに入団した津田翔太は、こんな持論を持っている。

 出身は東海大学。組織的で激しい守備を起点にチームが一丸となった攻撃を見せる、進境著しいチームだ。津田が最終学年だった昨季は、初の関東大学リーグ戦1位に輝くなど、大躍進の過程にある。

 原動力のひとつは、木村季由監督と加藤尋久ヘッドコーチ(HC)の役割分担だ。2007年11月24日、リーグ戦優勝を決めたその日。記者に囲まれた木村監督はこう話していた。末尾に冗談を添えて。

「基本的にグラウンド(ラグビーそのものの指導)は加藤がいますので、そこは安心していられる。僕は生活の部分。そこが緩くなると全部が緩くなる。抜き打ちで見回りもします。まぁ抜き打ちと言っても、事前に『そろそろ行くぞ』というそぶりは見せておきますよ。でないと、逆に(心の準備ができていない学生の部屋に入った)自分がびっくりしちゃうんで」

 一方、当時の寮生活を津田自身はこう振り返る。

「朝、全員で食堂に集まるんですけど、欠席すると全員で連帯責任。厳しかったですね」

 ラグビーでもそれ以外の部分でも、連帯感がものを言う状況下で過ごしてきた。

――ラグビーを始めた時のことを教えてください。

「5歳です。父親がずっとラグビーをやっていて、その影響ですね。京都ラグビースクールに初めて行ったのが始まりだったと思います。練習は日曜日だけ。楽しくやっていましたね。地元の中学にラグビー部があったんで、中学からはラグビースクールは辞めて、そのラグビー部に入りました。陶化(とうか)中学校っていう、平尾誠二さん(現神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督)の母校です」

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――高校は、常に全国上位に名を連ねる東海大仰星に入学します。

「自分は(ラグビーを始めたころから)ずっとSO。先生に相談したら、『東海大仰星っていう大阪の高校がSOのことを教えてくれるから、そこに行ってみたらどうだ』と言われたんです。自分が行きたいと思ったのは2年生の冬なんですけど、その時期に東海大仰星が全国優勝したんですよ。自分は勉強を頑張って、普通科に入りました。(ラグビー部員が多く在籍するスポーツ推薦組クラスと違って)普通科は勉強ができないと置いてかれる。特にテスト前はヤバイっすね。練習どころじゃなくなったり(笑)。でも、今思うと普通科でよかったかなって思います」

――SOとしても勉強になりましたか。

「(高校では)組織的なラグビーを色々教えてもらったんです。SOが中心になってラグビーのゲームプランを進めていくと。中学の時は人任せのプレーもよくしていたんですけど、高校になると自分でゲームを組み立てて、いかに周りを活かしてゲームを有利に進めるかを、すごく考えさせられましたね」

――頭と同時に、身体も鍛えました。

「高校のときは朝練もほぼ毎日。帰るのも、夜8時半に完全下校なんですけど、ギリギリまでグランドで反復練習を。その後は筋トレ。『高校生で筋トレをするのはあまりよくない』って言われているけど、帰りにジムに行ってました。帰るのは夜の11時とかなんですけど、次の日に朝練もあるんで、ちょっと(夜食を)食べてすぐ寝るだけ。今思うと、よくやってたなぁと思います」

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――東海大学への進学を決めたのは。

「3年生の5~6月ぐらいですかね。自分は高校1年か2年のときぐらいに教員になりたいなって思ったんですよ。ラグビーを人に教えるのが好きで、将来的にそういう人と接する仕事に就ければいいなっていう考えがあった。それを先生に相談したら、大阪体育大学か東海大学がいいと勧められました。すごく悩んだんですけど、高校の同期の30人中10人くらいが東海大に行くということで、自分も東海大に決めたんです。このメンバーで日本一になりたいな、って。
 大学に入った時はレギュラー(獲得)とかは考えていなくて、目標は教員免許を取ることだった。親ともそれを約束していて、しっかり学校は行こうと思っていた。結果的に免許も取れて、幸いにもスポーツと成績(両方の)優秀者がもらえる賞をもらって、親はめちゃくちゃ喜んでくれています」

――ラグビー部でいえば、ちょうど強化が本格化してきた時期でした。

「3年生で衝撃の出会いがありました。5月ぐらいに加藤さんが正式に東海大のBKコーチに就いてくださることになったんです。明治(大学)・神戸(製鋼)の強い時代のSO、センター(CTB)で、色々教えていただいた。2年生までは自分はCチームで、高校時代の同い年がSOでレギュラーだったけど、3年生で加藤さんが来てから2試合目ぐらいからBチームで出られるようになったんです。その後、Aチームにいた同い年のSOが怪我をしたことで自分がAチームに上がれて、公式戦もそのまま」

――東海大は、統率の取れた守備も印象的です。

「守備は、自分は3年生までは得意じゃなかったですけど、加藤さんに(守備も重視しろと)言われて。加藤さん以外の人にも『最近のSOはFWと接近もある。そこ止められないと将来高いレベルのところでやっていけない』と言われたので、しっかり基礎から教えていただいた。昔よりもしっかりとタックルに行けるようになりました」

――木村監督は、逆に人間教育を。

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「厳しいっすね。(大学の)ゼミも監督のゼミで、卒論とかについても色々と教えてもらったんですけど、あの人は物事を先まで考えている。表面だけじゃなくて、本質的なことまで考えている。賢い人ですね」

――時折、寮の見回りをされていたと聞きます。

「ありましたね、たまに抜き打ちで。ただ、そういう私生活のところからしっかりしてないと、グラウンドで出ちゃうと思うんですよね。どっかで楽をしようとしてしまう」

――4年生時の夏合宿のテーマは『緊張感』だったそうですね。

「もう、あの夏合宿は味わいたくないですね。緊張感がないと連帯責任っていう・・・」

――例えば、お風呂のスリッパは全部揃えないとダメ、とか。

「あぁ、もうダメですね。全部揃えてないと。ご飯も、出されたものは残せなかったですよね。大きい炊飯器が2つあって、それを空けるまで全員食堂から出られなくて。で、空けると(宿舎の)おばちゃんが新しいのを持ってくるんですよ(笑)。みんなで助け合って、昼ご飯とかは練習20分前くらいに食べ終わって、お腹パンパンで練習。できたもんじゃないですよ。
 メンタルな部分で1年間を通して、加藤さんや木村監督に鍛えられた。今、リコーではトッド(ローデンHC)がメンタル強化のことを言っているけど、僕の物差しでは、大学時代にああいうの(緊張感のある生活)を経験しているんで、大丈夫です」
 ローデンHC就任以後、チーム内では面食らう選手も少なくない。しかし津田は、練習の内容や密度に感心することはあっても、グラウンド外も含めた緊張感の持続には、それほど大きな違和感を覚えていない。
 高校では部活に専念する仲間の隣で文武両道を貫き、大学では私生活を律することでグラウンド内での緩みを排除してきた。今季のリコーが謳う一体感の醸成には、ある程度慣れているのだ。

――今季の目標は。

「ゲームに出ることと、怪我をせず自己管理をしっかり。自己管理をすることで、ゲームでパフォーマンスを100%出せるんで。この1年は周りの選手に遅れないようにチームを観察して、自分が何をするべきかを考える。それからゲームに、となると思います。
 今は(チームが定めた)サインを覚えていますね。SOはそれを全部覚えないと試合に使ってもらえないので」
 目下最大のライバルにして教科書のスティーブン・ラーカムとは競合するか、はたまた自身のコンバートにより共存するか、熟考中だ。いずれにせよ、自他共に抜かりなく管理し、勝利という「最低限の役割」にまい進したい。

(文 ・ 向 風見也)

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