横山伸一選手 インタビュー
2008.07.24
アニキと俺なら、どこまでもいける――。
自らを「人見知り」と言いながら、語り出したら淀みない横山伸一は、双子の兄・健一との二人三脚に絶対の自信を持っている。
サッカー少年だった山形のスポーツ万能兄弟はいつしかラグビーに触れ、数多くの兄弟喧嘩、大勝負、ドラマを経て、最強のコンビに成長した。ふたりのスキルとスピードは、拓殖大学時代に選出されたセブンス(7人制ラグビー)日本代表でも存分に発揮される。"リーグ戦1部昇格から間もない拓殖大に有力選手あり"と、ラグビー関係者の耳目を集めた。
そして、弟・伸一が今季リコーブラックラムズに入団した。大学進学前に1年間地元で生活をしていた兄よりも、一足先に社会人となった。
――中学3年生時、サッカー部の引退を期にラグビーと出会ったそうですね。
「そうです。(少年期の友達に)『今はラグビーをやってる』って言うと、みんなびっくりします。それくらいサッカー少年でした。1年の時に僕と、3年の時に健一と同じクラスの友達がいて、ずっとそいつに『ラグビーやらないか?』って言われていました。それと、3年間一緒だった担任の先生にも誘われたんです。最初は『サッカー以外考えられない』って感じだったんです。だけど勉強が苦手で、『動いていれば次に繋がるだろう』とラグビーを始めた、って感じです」
――受験勉強をしない言い訳が欲しかった、と。
「そうそう、そうですね。それで、高校に行ったらまたサッカーをやろうと思ってました」
――でも、ラグビーを選んだ。
「(中3の時)秋口くらいに東北大会があって、(そこで負けたチームの有力選手が集まった)東北選抜に選んでもらったんです。そこでは(ラグビーが盛んな)秋田の子が多かったんですけど、『秋田の子、すごいなぁ』って(感じた)。自分は走ることと言われたことしかできなくて、歯がゆかったです。それからですね、ラグビーをやりたいと思ったのは。担任の先生が山形中央高校の体育科を紹介してくれて、親もやりたいことをやりなさいと言ってくれた。
ラグビーはどこを走ってもいい。ルールだって(他競技に比べれば)全然ない。『前に投げちゃいけない』『落としちゃいけない』っていうだけで、あとは何でもできる。それが楽しくて、今でもやってます」
――そうして、花園常連校である山形中央高校に入学します。
「『楽しんでやりたい、花園に行ければいいだろう』っていう人と、その上を目指していた人との別々な思いがあった。僕は主将をやっていたんですけど、『一生懸命やろう、やらないんだったら辞めていいよ』って言っていました。でも、健一は『15人いないとラグビーはできないだろ。そこをもっと尊重しろよ』と。高校生までずっと喧嘩していましたね。言い合い、時には殴り合いで。仲良くなったのは大学生になってからです」
――高校卒業後、伸一選手は拓殖大へ。健一選手は一旦、地元で就職しましたが、その後しばらくして「やっぱりもう一度、一緒にやりたい」と電話してくるようになったそうですね。
「大学生ってラグビー漬けじゃないですか。だから3ヵ月くらい、健一のことはずっと忘れていましたね。その(もう一度共にという)話も、冗談半分だろうなって。でもオフの時、家に帰ると『家族って大事だな、ちょっと寂しいな』って思いがこみ上げてきた。健一も、9月か10月くらいにもう一度(ラグビーを一緒にやりたいと)言ってきたんです。『そのためにお金を貯めている』と。自分もそれを聞いて『あ、本気だったんだ』って思って、監督(遠藤隆夫・拓殖大監督)に頼み込んだ。それからちょっと仲良くなりましたね」
――1年時、チームは関東大学リーグ2部に降格してしまいます。1部への再昇格を果たしたのは3年時。しかし、翌年のリーグ戦1部で、昇格して間もないなかで3位。日本選手権出場を果たします。
「自分、いい言葉をメモっていて、そのなかに『いい思いの前にはつらい思いがある』というのがある。強くなったのも、それまで先輩に練習を手伝ってもらったりしたからだと思うんですね。それと、2年の時(入替戦に参戦しながら1部に)上がれなかったんですけど、あれほど緊張した試合はなかった(関東大学リーグ戦入替戦・対立正大学・2005年10月11日・熊谷ラグビー場・●=31対17 )。拓殖は伝統もない。『入替戦より緊張しないし、失うものはないからがんばろうよ』 って言っていましたね」
――昇格を果たせなかった入替戦が、ターニングポイントになったのでしょうか。
「何もできなくて、俺と健一のせいで負けたなって思った。そこからですね、強くなろうって思ったのは。当時、自分は奨学金をもらっていたんですけど、健一はもらえていなかった。監督ががんばってくれて、『1部に上がったらもらえるようにする』と言われたんですけど、上がれなければ健一が山形へ帰らなきゃいけないことになる。家は裕福じゃなかったんで。
結局負けて、親に『山形に帰ることになった』って電話をしたんですけど、母さんに『何とかするからがんばれ』って言われた。『今までは甘かった。もっとがんばろう』って思いました。結局、監督ががんばってくれて、健一も2年から奨学金をもらえるようになったけど、そこからはラグビーに尽くそうって (強く思うようになった)」
――その後の活躍は目覚ましい。2007年5月6日の東日本セブンス選手権大会で優勝、その活躍が認められてセブンス代表に選出されます。当然、兄弟で。
「日本代表は雲の上って感じだったんですけど、実際にやってみると『あれ?』って感じましたね。人って、そんなに差はないのかなって。(外国人選手と対戦しても)ラグビーのスキルは日本が上だし、フィジカルもそんなに負けてない。でも、そういうなかでも学ぶことがあった。円陣を組む時にちょっとずれていたら、吉田さん(大樹・東芝ブレイブルーパス)が『しっかり円になれよ』って。『これがチームなんだ』って思いましたね。
ただ、代表では健一とバラバラで出ることもあったんです。それで『一緒なら2倍3倍になれる』って思いが、確信に変わりましたね」
家族の長所は離れてこそ再確認できるもの。ひとりで大学に進学してからの1年間、どちらかがベンチを温めるケースが続いたセブンス代表での日々。これらの期間を通じて、伸一は健一の、おそらく健一も伸一のよさ、互いの相性を知ったのだ。
今はふたりにとって、3度目となる単身での挑戦となる。特に伸一にとっては、周囲の環境も激変する日々だ。それでも、多様性を認めるラグビーという競技で個性を発揮したいと、変わらずに思っている。
「ラグビーってマイナーなんで、『詳しくないと観に行けない』みたいなところがあるけど、気軽な感じで来てほしいですね。観ていて必死さや熱さ伝わる方がいたり、トリッキーなプレーをする方もいたり、いろんな選手が居るから面白いと思うんです。僕は1対1が好き。『外国人選手にも怖がらないで勝負してる!』って、そういう風に観て欲しいですね。できれば・・・」
公としては「進路未定」の兄にも、思いを馳せる。
「俺 と健一で並んで、『横山家ここにあり』みたいになれたらいいですね――」
(文 ・ 向 風見也)