花園近鉄ライナーズ×リコーブラックラムズ東京 定期戦50回特別企画「レジェンド対談」

2025.11.18

いつもブラックラムズ東京を応援いただきありがとうございます。

花園近鉄ライナーズ(旧:近鉄ラグビー部)とブラックラムズ東京(旧:リコーラグビー部)は、1976年の開始から続く両チームの「定期戦」が2025年で50回目という節目を迎えました。

両チームは1970年代より社会人ラグビー界を代表する存在として、1973年、1974年の全国社会人大会決勝で連続して激突するなど、長い歴史の中で互いに競い合ってきました。

今回この節目を記念し、当時の黄金期を支えた、今里良三氏(近鉄・元日本代表)と水谷眞氏(リコー・元日本代表)のお二人による特別対談が実現しました。定期戦誕生の背景、当時の激戦の舞台裏、そして現在のチームへのエールなど、50年の積み重ねを物語る貴重な内容となっております。

※11月15日 第50回定期戦 当日配布資料(PDF版) |両チームの「黄金時代」を支えたレジェンド対談

〜50回目の定期戦を記念して〜 リコーと近鉄の黄金時代を支えたレジェンド対談

近鉄ラグビー部(現・花園近鉄ライナーズ、以下近鉄)とリコーラグビー部(現・リコーブラックラムズ東京、以下リコー)による定期戦が始まったのは1976年(昭51)。当時、両チームはそれぞれ関西と関東を代表する社会人ラグビーの強豪として、全国大会でしのぎを削っていました。

近鉄の創部は戦前の1929年(昭4)。1953年度(昭28)に全国社会人ラグビーフットボール大会初優勝を機に躍進し、74年度(昭49)までに計8度の優勝と9度の準優勝。一方のリコーは、近鉄が初優勝を果たした53年に創部。そこから力を蓄え、67年度(昭42)に初めて全国大会に出場すると、3年後の70年度(昭45)に初優勝。関係性としては、1950〜60年代に既に黄金時代を築いていた強豪と、急速な強化によりその背中に迫った新鋭というのが、近鉄とリコーの関係でした。

ただ、70年度から73年度(昭48)にかけてはリコーが4シーズン連続で全国大会の決勝に進んでおり、優勝3度、準優勝1度と好成績を連発。短期的には近鉄が「打倒リコー」を掲げ挑む構図も。74年度(昭49)には決勝戦でリコーに勝利して優勝しました。

今回は1970年代に名勝負を演じた近鉄とリコー両チームのレジェンドをお招きし、当時を振り返っていただきました。

▲左:今里良三氏(近鉄・元日本代表)、右:水谷眞氏(リコー・元日本代表)

 

近鉄とリコーがしのぎを削った2度の決勝戦を振り返る

——お二人は、近鉄とリコーが優勝を争った時代にプレーをされていました。

今里:(全国社会人ラグビーフットボール大会の)決勝戦では2度戦いましたよね。1973年度(昭48)の決勝は3-4で近鉄が負けました。花園のインゴールは結構広いのですが、そこへポーンと蹴られたんですよ。僕がボールを追いかけたんですが、リコーのウイングの有賀(健)が、だーっと走って押さえてトライしたんです。当時のトライは4点。うちはペナルティゴール1本しか取れず負けてしまった。確かインゴールノックオンを2回ぐらいしたんですよね。うわあ、悔しいなあと。今度は絶対勝たないかんなあと思ったのを覚えています。

水谷:後半、ゴール前でペナルティをしてしまった場面があった。PGを狙うのかと思ったけれど回してきた。あれに助けられるかたちになったんだよね。

今里:PGを狙うかどうかの判断は自分にまかされていたんです。狙えば勝てていたかもしれない。でも、頭が真っ白になっていて、ラグビーはトライを取って勝つものだと考えてしまった。それで攻めたんですが、結局ディフェンスに負けてしまって。ディフェンスはお互い強かったんですけど、リコーのディフェンスはすごかった。めちゃくちゃシャープで前に出てくるんですよ。うちもいいBKが揃っていたんですけど、ボールを回すと僕の目の前で潰されて下げられる。ものすごいプレッシャーを感じました。

水谷:近鉄にはウイングに世界的な選手だった坂田(好弘)さんがいたので、そのマークをずっとしていました。うちはがむしゃらにやるしかないなって感じですよ。リコーは1970年(昭45)に大量補強をした急造チームだったから、作戦に則って戦うのはあまり得意ではなかったんです。自分もその年に入社したんですが、短期間で一気に作り上げて、その年に全国の決勝までいって、新日鉄釜石(現・日本製鉄釜石シーウェイブス)と引き分けて初優勝した。急造だという意識があるから少しチームワークにこだわりすぎて、暴れられなかった。いけるところは個人でいっていれば、勝ちきれていたと思うんだよね。

——今里さんは、リコーが個のチームだった印象はありますか?

今里:それから少し経って決勝戦で対戦したときには、よくまとまっていたし洗練されていましたよ。15人でラグビーをしていました。ジャパンクラスの選手たちが組織で戦っていたのだから強いですよ。

水谷:その次の1974年(昭49)の決勝は、自分はケガで出られなかった。

今里:そうでしたね。前の年にPGを狙わなかったことが結果に響いたので、前半からPGを2本決めて。1本返されて6-3になったのかな。とにかくキックアンドラッシュ(キックを蹴り込み、争奪戦を挑んでいく戦術)で行ったんですよ近鉄は。もうことごとく。

リコーのディフェンスは、多少混乱した場面でも必ず誰かが出てくる。我々がアタックしていても、必ず誰かが出てくる。FL陣のディフェンスもよかったし、BKのディフェンスもよかった。正直言ってボールを回すのが怖かったんですね。だからキックアンドラッシュで攻めてFWを前に出していったんです。狭い幅で攻める戦い方。それでしかリコーには勝てないという思いが、チーム全体に浸透していました。監督に「回していいですか」と聞きましたけど「いや蹴っていけ」という感じで。実際にそれでトライも生まれました。

今回、映像を見直してきたんですけど、後半はほとんどリコー陣内で戦っていましたよ。近鉄陣内に入ったのは2、3回じゃなかったかな。思うようにトライを取れてはいませんでしたが、とにかく攻めていました。

水谷:当時の全国大会は、1週間で4試合を戦う日程。選手の交替もできなかったんだよね。

今里:それを戦い抜けるように必死に練習した。とにかくスタミナが大事だったんです。

水谷:近鉄とリコーは練習がきついって広まっていたから、学生の採用が大変だったそうだよ(笑)。

 

定期戦がさらに続いていくためにはやっぱり両チームが強くなっていくこと

——そんな熱戦の翌々年、76年(昭51)に近鉄とリコーの定期戦が始まりました。これは力を認め合っていた強豪同士で試合を、といったものだったのでしょうか?

水谷:近鉄とリコーの間で定期戦が実施されるようになったのは、ビジネスでの繋がりがきっかけです。1972年(昭47)、福岡の博多駅そばに両社が九州事務所を置く「福岡リコー近鉄ビル」が建って。そこで縁が生まれた役員同士がともにラグビー部の活動に関わっていたことから話がはずみ、日本ラグビーの将来や展望を語り合う中で「定期戦」という構想が生まれたそうです。「強豪同士でやろう」というよりは、もう少し危機感があったんじゃないかな。2年連続で決勝戦を戦った次の年、75年(昭50)は両チームともに決勝まで進めなかったんです。「もっと頑張らないとまずいぞ」というムードだったのを記憶しています。

今里:大阪の花園と東京の世田谷・砧で交互にやっていたんですけど、最初は長居競技場も使ったんですね。何か都合があったんでしょう。当時は秋にリーグ戦が開幕していましたので、定期戦は春の練習の成果を確かめる機会になっていました。それを終えて夏合宿に向かうという感じでしたね。

水谷:秩父宮と花園で交互にやっていた全国大会を除くと、当時は遠方で試合をやるというのは珍しかったから特別なものだったな。近鉄との定期戦は僕らは日帰りだったので、一緒にゆっくり食事をしたりする時間はなかったんだけど、アフターマッチファンクションで交流していい関係ができた選手もいたよね。

——近鉄とリコーの縁でいえば、近鉄のNO8アキラ・イオアネ選手(1995年生/元NZ代表)は、かつてリコーに所属していたFWのエディ・イオアネ(1994-1998に在籍)さんの息子さんで、“アキラ”という名前は水谷さんの息子さんと同じなんですよね。

水谷:エディは採用のためにニュージーランドまでいったんだよ。名前のことはそこまで深く話した記憶はなくて、食事をしている中で話題になったくらいだったと思うんだけどね。エディは次男もうちの長女の名前をとってレイコにするといってくれたんだけど、そこからリーコ(・イオアネ/1997年生/NZ代表)になった。

今里:外国人選手といい関係を築けていたんでしょうねえ。

水谷:当時はビザのこともあって、外国人選手も社員になってもらっていたんですよ。実際に海外の事業に関わる仕事をしてもらっていたからね。そういう例はあまりないんじゃないかな。住んでいる場所も近かったし、いろいろなところに送っていったなあ。そんな関係だった選手の子供たちがオールブラックスに入るなんてね。びっくりしたよ。

——定期戦は今年でついに50回を迎えます。

水谷:互いに優勝を経験して、「もう一度」という思いで支えてくださった方々がいた。そして、それに応えようと頑張ってくれる選手やスタッフがいたから続いてきたんだね。

今里:近鉄も同じです。結果を出すのはなかなか難しいですが、それでも選手やスタッフが努力する姿を見て、応援しようと思ってくださった方々のおかげですよね。

水谷:さらに続いていくためには、やっぱり両チームが強くなっていくことが大事。今のリコーはチャンスがあるよ。SHのTJ・ペレナラは惚れ惚れするね。バチッと入って、優しいパスを投げて、動いて動いて。すごい。

今里:私たちも後輩たちにエールを送って、少しでも熱を伝えていきたいですよね。ラグビーっていいですもん、楽しいですもん。

水谷:そう。ラグビーは最高だよ。

 

対談者プロフィール

■今里 良三(いまざと・りょうぞう)

1947年(昭22)生まれ。現役時代のポジションはSH。報徳学園から中大に進み、69年(昭44)に近鉄に入社。その年に全国社会人ラグビーフットボール大会優勝を経験し、74年(昭49)にもリコーを破り再び優勝。日本代表としては69年から76年(昭51)にかけてプレーし、テストマッチが少ない時代ながら23キャップを獲得。勇退翌年の79年(昭54)には日本代表監督も務めた。その後は近鉄ラグビー部監督、ラグビー運営部長など要職を歴任。23-24、24-25シーズンはリーグワンで戦う花園近鉄ライナーズに復帰し、チーム統括・アドバイザーとして強化をサポートした。

 

■水谷 眞(みずたに・まこと)

1946年(昭21)生まれ。現役時代のポジションはCTB・WTB。日本代表キャップ4。目黒(現・目黒学院)から法大を経て1970年にリコーに入社。70年度(昭45)、72年度(昭47)、73年度(昭48)に全国社会人ラグビーフットボール大会優勝。72年、73年は日本選手権も制した。76年(昭51)からは指導者としてチームを支え、1980〜2000年代にリコーラグビー部監督や総監督、副部長などを務めた。その頃にリコーに在籍したFWのエディ・イオアネは、花園近鉄ライナーズに所属する元NZ代表NO8アキラ・イオアネの父。“アキラ”は水谷氏の息子の名前をとって名付けられたことは有名。

 

全国大会での近鉄とリコーの戦い(1967〜75)
 年度 近鉄とリコーの対戦  優勝 
 1967 (昭42)  準決勝で対戦。21-6で近鉄の勝利
 ※リコーは全国大会初出場
 近鉄
 1968 (昭43)

 1969 (昭44)
 近鉄
 1970 (昭45)

 リコー

※決勝引き分け 

 1971 (昭46)  準決勝で対戦。9-0でリコーが勝利   
 1972 (昭47)
 リコー 
 1973 (昭48)  決勝で対戦。4-3でリコーが勝利  リコー 
 1974 (昭49)  決勝で対戦。10-7で近鉄が勝利  近鉄 
 1975 (昭50)
 ともに決勝進出を逃す 
 1976 (昭51)  近鉄とリコーの間で定期戦がスタート
各チームの全国大会・日本選手権での初優勝年
 No チーム名  初優勝 タイトル  年度 
1  配炭公団  全国実業団ラグビーフットボール大会  1948
 三井化学  全国実業団ラグビーフットボール大会  1949
 八幡製鉄  全国実業団ラグビーフットボール大会  1950
 九州電力  全国社会人ラグビーフットボール大会  1953
 近鉄  全国社会人ラグビーフットボール大会  1953
 トヨタ自工  全国社会人ラグビーフットボール大会  1968
 新日鉄釜石  全国社会人ラグビーフットボール大会  1970
 リコー  全国社会人ラグビーフットボール大会  1970
 三菱自工京都  全国社会人ラグビーフットボール大会  1971
10   東芝  全国社会人ラグビーフットボール大会  1987
11   神戸製鋼  全国社会人ラグビーフットボール大会  1988
12   サントリー  全国社会人ラグビーフットボール大会  1995
13   パナソニック  全国社会人ラグビーフットボール大会  1995
14   NEC  日本選手権  2002
15   ヤマハ発動機  日本選手権  2014
16  クボタ  リーグワン  2022
1976年の出来事

・ロッキード事件で田中角栄前首相逮捕

・黒柳徹子さんのトーク番組「徹子の部屋」の放送がスタート

・アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦が日本武道館で開催

・「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が連載開始

 

 

(取材・文:秋山 健一郎)

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