神鳥裕之監督 ラストインタビュー
2021.06.04
2013年の就任以来、リコーブラックラムズを8シーズンにわたり率いてきた神鳥裕之監督の退任が決定しました。トップリーグでのチーム最高位となる6位、チーム最多勝となる9勝などを達成し、リコーに着実な成長をもたらした神鳥監督。その監督生活を振り返るインタビューを行いました。
採用担当を経て、2013年に監督に就任
――チームスタッフとして2年。さらに監督を8年の計10年。監督時代にはチーム編成の責任者であるゼネラルマネジャー(GM)も兼任した期間もありました。これだけ長くチームに関わることになると想像していましたか?
全く思っていませんでした。こんなに長くこの仕事をさせてもらえたということに対しては、本当に感謝しています。選手を引退し、5年ほど社業を経験しチームに戻ってきたのが2011年。ちょうど山品(博嗣)が監督に就任したタイミングで採用担当としてサポートさせてもらうようになって。これからのチームをつくる上で、日本人の採用がものすごく大事だから、その足固めをしてほしいという話でした。
現場から少し離れたところからチームを見せてもらった2年間というのは、少し難しい局面を迎えていたと思います。能力の高い選手が多く、結果的としては2011-2012年には7位まで順位を上げたのですが、チームとして同じ絵を見ることができていないと感じることもありました。採用担当という立場からチームを見つめ考える経験ができたことが、自分が監督になったときの方向性、自分がつくりたいチームの方向性というものを見つけさせてくれたようには思います。
――2013年に監督に就任しました。まずどんなことから取り組んだのでしょうか?
誰かに言われたわけではないのですが、「リコーのOBが監督になる」ということの意味を考えました。2008年から3シーズンにわたったトッド・ローデンヘッドコーチ(HC)のチームづくりからの流れを理解しながら、自分の価値観を信じてスタートしたことを思い出します。
最初は規律面。規律を通じ、戦う集団としての競争力みたいなものをちゃんと植え付けたいなと思いました。監督に就任して最初のミーティングは、時間になっても選手が全員集まらず遅れてくる選手もいたので、時間についてのことを発信したのを覚えています。ラグビーを上手くなりたいという思いは誰もが持っていたと思うのですが、それを言い訳にしてずれてしまっている価値観を正していきたかったんです。
競争力という観点でも感じていたことがありました。これは良い悪いは別として、僕が監督になる前のチームというのは、あらかじめ決まったメンバーたちがプロテクトされていて、若いメンバーの起用はやや消極的で、様子を見ることが多いように映りました。怪我を抱えている選手やベテランの選手は、トレーニングにおいて少し守られることも多かった。でも、試合に出るのはその選手たちでした。
監督を務めて8年を経た今は理解できるところがあります。ベテラン選手のトレーニングボリュームをコントロールしながらマネジメントすることは自分もしていましたし、必要なことだとは思います。ただ、選手たちにそういう配慮を感じさせてしまうのはよくないので、バランスをとる必要があります。監督になった直後は恐れ知らずだったこともあり、ベテランにもフィットネストレーニングを全部やらせるべきだ、くらいのことを思っていました。レギュラーとは、競争して勝ち取るものだと誰もが考えるチームづくりをしたいという思いが強かったんです。
ダミアン ヒルヘッドコーチとの出会い
――そして、ヘッドコーチとタッグを組み、より具体的なチームづくりに入っていきました。レオン・ホールデンHC(2013-2014)、ダミアン・ヒルHC(2014-17、19-21)、マット・コベインHC(2017-19)と3人のパートナーと戦ってきました。
レオンは僕が監督に就任する前からヘッドコーチを務めていたので、彼のやり方を踏襲しながら、その中でどうやってうまくやっていくかというスタンスでした。次のダミアンとのシーズンからが、自分としては本格的なチームづくりが始まったと思います。ダミアンとは本当にいろいろなことを話しましたが、誠実な指導者だったなという印象です。監督としての僕の思いも汲みながら、何事にも一生懸命取り組んでくれました。
ダミアンとのチームづくりに至ったのは、彼の考え方と僕の目指すチームづくりが近かったからです。監督1年目を終えて、リコーが目指していくべきラグビーはどんなラグビーなのかを考えました。材料は自分の経験則しかなかったのですが、「ひたむきに」「我慢強く」「粘り強い」というところに行き着いた。これは2003年2月、トップリーグが始まる直前のシーズンの全国社会人大会で、リコーがベスト4に入って日本選手権に出場したときの記憶からです。
あのときは1回戦(vs.早大68-31)を勝ち抜いて、準決勝(vs.サントリー24-52)まで進みました。元オールブラックスのグレン・オズボーン(FB)がいた頃です。あのときのリコーは今のリコーとよく似たチームだったと思います。俵に足をかけて、ゴール前で守って、1点差で勝つというような。あくまで僕の経験則の中でしかありませんが、あのときのリコーと戦う相手は嫌だったと思った。フィジカルも強いし、ディフェンスが良く、粘り強かった。
そんなスタイルを目指すんだと心に決めて動き出しました。まず手をつけられそうだと思ったのがディフェンスとコンディショニング。もちろんアタックにも課題はあったのですが、まずはこの2つだなと。そう考え始めたときに、ダミアンとディスカッションする機会がありました。彼が持っているラグビーにおける哲学は、ディフェンスとブレイクダウン、そしてコンディショニングの三本柱で、ここを引き上げるべきだと話してくれて、価値観が一致していると感じ興味を持ったんです。そこからのスタートだったと思います。色々、紆余曲折はありましたけれどもね。
――ダミアンはヘッドコーチを3年務めたあと一時的にチームを離れ、2017年からの2シーズンはマット・コベインHCがパートナーとなりました。この頃はフォワードの存在感が際立っていった時期でもあったように思います。
マットの時は、彼の性格もあってフォワードのパッションレベルが上がったような気がします。ラインアウトなどは、本人がワールドクラスのラインアウトジャンパーだったこともあって、多くのナレッジを持っていました。彼はブレイクダウンも指導していたので、コリジョン(衝突)のところの意識でも素晴らしいものを植え付けてくれたと思います。相手よりも早くセットして、ディフェンスラインを敷くことを「ブラックチェーン」という言葉で表現するようになったのも、マットがいた頃だったと思います。1秒で立つんだといってレスリングコーチを呼んで立たせ方を学んだりしました。
彼の言葉で印象に残っているものがあります。それは、フィジカルの強さを得ようとしたとき、1対1の強さで上回ることも大事だけど、それと同じくらい自信を持って相手にヒットできる状況をつくることも大事だというものです。どういうことかというと、隣に選手がいて、その選手がこの相手を見ていてくれる。逆側の選手も逆側の相手を見ていてくれる。それがわかっていれば、ターゲットがよりクリアに見えるようになりハードなヒットができるということ。そのためには、早く立ち上がってセットしてそれぞれがノミネートしている状態をつくることが重要で、それがヒットの強さを上げるんだと彼は言った。さらには、迷ったときは自分が出した決断が正解だから、迷うなというメッセージもありました。そのあたりは僕にとってもクリアに入ってきました。リコーのフィジカル面のポテンシャルを引き出してくれたと思います。
2015年の失敗と2016年の再起
――転機となったシーズンはありますか?
なんといっても3年目の2015-16シーズンですね。ダミアンと組んで2度目のシーズン。前年の2014-15シーズンは下のリーグではありましたが、セカンドステージで6勝1敗と大きく勝ち越しました。ワイルドカードトーナメントでも1勝して、まずまずの結果を出せた。ただ、そこからさらに上を目指そうとしたときに、迷い道に入ってしまいました。
例えば当初、アタックではシンプルにゲインラインを意識してフラットな形でというものを目指していました。リコーの選手のフォワードの身体の大きさは、他のチームと比べても遜色なく、もしくはアドバンテージがあるくらいでした。小細工をさせるよりも、わかっていても止められないようなアタックストラクチャーをつくっていったほうが、彼らが活きると考えたんです。ただ、さらに良くしようとして実施したブラッシュアップやモデルチェンジが、結果的に良さを失わせてしまうことになった。
ファーストステージのリーグ戦では7試合を戦い一度も勝てませんでした。特に印象に残っているのが熊谷での東芝戦(52-7)。内容についての記憶はほとんど無いくらいなんですが。ラインアウトモールで何度もトライを奪われ、なす術がなく前半だけでかなりの失点をしたはずです(前半終了時点で0-38)。今だから話せるのですが、あの試合は監督席にいたくないと思った唯一の試合でした。そう思ってしまった時点で監督としては失格ですし、選手たちにも申し訳なく、本当に辛かった。
9位から16位までを決めるトーナメントでも初戦の豊田自動織機戦に敗れ(17-27)入替戦が決まって。その次のNEC戦でようやく勝つことができたんですよね(31-5)。あの1年というのは、本当に色々な経験をさせてもらいました。コーチ陣と夜遅くまで議論したこともあったし言い合いにもなりました。コーチの岡崎(匡秀)とも喧嘩になったりね……。
――ただ、苦しいシーズンを経験した翌年からリコーは安定した成績を残せるようになりました。2016-17シーズンから6位、7位、8位と中位をキープしました。
リーグ戦0勝という結果にもかかわらず、次の年にもう一度チャンスをいただけたことはすごく感謝しています。2015年の失敗を徹底的に検証し、何が良くなかったのかを考える機会を得ることができたからです。試合映像を繰り返し見ていくうちに、ボールを持ってないときの選手のアティテュードに強いチームとの差があるとはっきりわかりました。2015-16シーズンの第2節で、リコーはHondaと戦い負けました。(18-24)
その試合の映像によく表れていたのが、とにかく全員、タックルし終わった後に立ち上がってこないんですよ。その映像を切り出して、チャンピオンとなったパナソニックの堀江(翔太/HO)選手や稲垣(啓太/PR)選手のディフェンスの映像を見せて比べさせた。そして「プレースキックの精度やパスのレベルを高めるのは難しいかもしれない。でもこういう風に、すぐに立ち上がることは明日からできるよな。ここを一番にしよう」と話したんです。
そしてそれを伝える手段としてのキャッチ―な言葉が欲しかった。ダミアンと示した「ディフェンス」「ブレイクダウン」「コンディショニング」という3本柱はより具体的でラグビーの用語だったので、チーム全体のパワーとなる言葉が欲しいと考えました。選手たちに求めるものは、徹底的に、シンプルに、発信し続けられる言葉がほしかった。これを考えていた時期は外国人コーチたちはシーズンオフで帰国しており、日本人のラグビーコーチ、アナリスト、S&Cコーチでアイデアを出し合い話し合ったことを思い出します。その結果“Action”が誕生しました。Actionには「自分たちから仕掛ける」「ActionはReactionよりも強い」という思いも込められていて、相手よりも速く立ち上がり・動くというイメージにピッタリだという話になりました。
この今のリコーのスタイルの原点誕生までのプロセスに岡崎コーチと武川(正敏)コーチの2人は欠かせない存在です。監督就任以降日本人コーチとして、常に傍で支えてくれました。私の大切にする価値観を共有し最も多くのことを話し合った同志でした。
そうした姿勢をチームに浸透させていくために一番いいキャプテンは誰かと考えたとき、それは馬渕(武史/LO/FL)だと。辛い入れ替え戦を経験し、そこから這いあがらないといけない状況でキャプテンを務めるのはしんどかったと思うんですけど、彼は引き受けてくれて。Actionというスローガンを体現するハードワーカーとして頑張ってくれました。
馬渕だけではなく、そうしたラグビーを実行するのに適したメンバーがしっかり揃っていたのも幸運でした。マイキー(ブロードハーストマイケル/LO/FL)もそうだし、タマティエリソン(CTB/SO)もそんな選手でした。タマティのことを皆で「ミスターアクション」なんて呼んでいたのを思い出します。
そういうチームの特性を生かし、ひたむきなプレースタイルで再スタートを切れたのが2016年でした。埋もれてしまっていたリコーが一番大事にすべきものを掘り出して、みんなが見えるところに取り出せたシーズンだったと思います。前の年にいいところなく敗れた東芝にも、勝利していますからね(33-28)。チームというのはたった1年でここまで変わることができるんだと。
リクルーティング改革。海外出身選手に求めたもの
――この年は、今シーズン共同主将を務めた松橋周平(NO8/FL)、濱野大輔(CTB)らが入団し活躍しました。松橋はトップリーグの新人賞に選ばれてもいます。この頃からリクルーティングにおける成果を感じることは多くなりました。
採用担当だった頃から、自分の中で感じていたのは「ストーリーのある選手は強い」ということでした。トップリーグでやりたいんだ。リコーでやりたいんだ。結果を出したいんだ。そういうパッションのある選手を積極的に採用していたと思います。一度は銀行員になりながら、2015年のラグビーワールドカップの日本対南アフリカ戦を見て、もう一度トップリーグを目指した中澤(健宏/FB)、トライアウトを経てやってきた眞壁(貴男/PR)、2012年に入団して18年までプレーしてくれた藤原(丈宏/PR)であったりも、そうした意味で印象に残っている選手です。松橋にも、最初にリコーが声をかけたことを意気に感じてリコーを選んでくれたという背景があります。
チームづくりのある局面、たとえば下位から中位に押し上げないといけないときは、実績のある選手に来てもらってチーム力を上げるという方法は必要なのだろうなと思います。ただ同時に、そこから先のステップで苦しんでいるチームも多いなという印象を持っていました。だから我々としては、多少時間はかかってでも、チームの土台となってくれる選手を育てようとした。
一緒にチームづくりをしてきた福岡(進/現副部長)さんや田沼(広之/現日本体育大学ラグビー部監督)さん、西辻(勤/現GM)もそうですね。同じ目線で「思いに共感してくれるメンバー」を集めることをサポートしてくれた。現場も含め、そういった方針を理解してもらえたことには助けられました。このあたりは、僕が監督になって一番やりたいと思っていたことでもありました。
――採用時、選手たちには、どんな話をしていたのですか?
選手の置かれている状況に合わせ、アプローチの仕方は変えていたと思うのですが、今のトップリーグは限られたチームしか優勝していないリーグだけれども、そこに一石を投じたいんだと。それを目指すチームをつくるプロセスに携わってほしいという話はよくしていました。
そうしたビジョンやメッセージを積み重ねることや、松橋のような強烈なキャラクターが登場することで、我々のメッセージが追い風になってきた印象はあります。多くの代表選手が所属するチームに身を投じ、同じポジションに日本代表の選手がいるとわかっていても、競争を通じて成長したいという選手が、結果的にトップリーグで出場する機会が少ない現実がある反面、成長途中のチームを選び、早いタイミングでトップリーグでの出場機会を確実なものとして、公式戦でのパフォーマンスを評価してもらうことで新人賞を獲ったり、日本代表やサンウルブズに入ったりするチャンスが生まれる。そんなイメージが、松橋のおかげでリアルなロールモデルとしてより説得力のあるメッセージが学生たちに伝わったと思うんですよね。
海外出身選手については、ラグビーパフォーマンスももちろんですが、リコーというチームにコミットして、ここで100%を出したいという思いみたいなものがあるかを大事にしていました。「あなた達のパフォーマンスをよく知っている。でも、それに加えて2つのことをお願いしたい」と伝えていました。1つはラグビー以外のパフォーマンス、オフザフィールド、試合に向かう準備、姿勢など。もう1つがトレーニングでのパフォーマンスです。ここでプロフェッショナルな姿勢を見せて、チームを一生懸命引っ張ってほしいと。この2つは必ずお願いしました。
後は、できる限りリコーで長くプレーするチャンスがある選手を望みました。こればかりは一概に全部上手くいったわけではないのですが、最初から1年で帰らなければいけないとか、2年しかいられないとか、それがあらかじめわかっている選手はあまり積極的に獲りにはいかなかった。リコーで成長した結果、海外の有力チームからオファーが来て離れることになるなど、想定外の結果となった選手もいましたけどね。
僕が好まなかっただけで、今のトップリーグでは短期間の所属でもチームによくなじみ力を発揮している選手はいますから、この先リコーが次のステップに進むには必要なアイデアかもしれません。ただ、僕が携わっている間のチームづくりでは、長くコミットし続けながらこのチームを深く愛してくれて、最後まで忠誠心を持ち続けるような選手を求めていました。
――長く所属する外国人選手に、高いモチベーションを保ってもらうためにしていたことはありますか?
外国人と1対1で話すときは、ただ「規律を守ってほしい」などと話すのではなく、「自分のラグビーキャリアを否定するようなことをしないでくれ」「さらにリスペクトできる人生にしよう」というような言葉を選んでいました。生活環境面などは、他チームと比較したことはないのでどれくらいやれていたかの客観的な評価はしにくいのですが、外国人コーチからの提案を参考に可能な限りのサポートをしました。
暮らしてもらう部屋に迎えるときには、花やメッセージカード、子供がいるならリコーのマスコットのぬいぐるみを置いておくとかね。ほかにも冷蔵庫を開けたら1週間分のミルクが入っているとか。そういうことで最初の印象ってすごく変わると思うんですよ。それもやりすぎると甘えになってしまうのでバランス感は必要です。プロ選手である以上、自分で選んだ道に多少の厳しさは当然あってもいいとは思います。ただ、あんなごつい体をしていますけど、繊細な部分はありますからね。いろいろなバッググラウンドを持つ選手やスタッフと一緒に仕事をしましたが、根本的な部分は一緒なのだということを監督の仕事を通じて学ばせてもらいました。
フロントと現場が一体となったチームづくり。選手起用におけるこだわり
――選手の獲得という編成面の方針と現場での起用における方針。そのマッチングも意識されていました。新人なども含め、実績を問わず使っていく姿勢というのは、8年間貫いていたように思います。
採用担当をしていた2年間は、固定されたメンバーもいたので「この選手がメンバーに入れないのか」と歯がゆく思うことがありました。だから、監督になった当初から、少し意図的に前の体制でピックアップされていなかった選手に目を向けるようにしていました。当然、その選手が一生懸命努力しているというのが絶対的なルールでしたが、しっかりパフォーマンスを見せていれば、先入観にとらわれず思いきって選びました。最初のシーズンで覚えているのは、森谷(和博/FL)かな。当時フォワードコーチだった田沼さんに「使います」っていったら「使おう」って言ってくれて。そういう方針をすごく支持してくれて、背中を押してくれたのはありがたかったです。
先ほど名前を挙げた藤原(PR)なんかも、入団してからしばらくは出場機会がなかったのですが、スクラムについては組めば強いことはわかっていた。その長所を信じて思いきって起用したのを覚えていますね。
――そうした方針は、その後も続きました。良くない内容で敗れた試合の次の試合などに、出場経験の少ない選手が抜擢し、その思いきりのよいプレーでチームが勢いを取り戻していく場面は何度も見たような気がします。
自分の中で、メンバー選考では3つのルールを設けていました。迷ったときは「日本人選手を」「若いほうを」「社員選手を」というもの。もちろん、監督を長く続けているとどうしても先入観ができてしまうので、だんだん難しくなっていきましたが。2015-16シーズンでやっと勝つことができたNEC戦で、それまでの8試合に一度もメンバーに選ばれていなかった赤堀(龍秀)をNO8で出場させたことを覚えています。突き放せずにいた後半、彼がハイパントキャッチを決め、それがトライにつながり勝利を確かなものにしたんです。最後は直感を信じることも大事だと感じたゲームでした。
監督を務めた8年間の中で、コーチ陣にどこまで権限を委ねるかは、いろいろ変えてきました。メンバー選考ひとつをとっても、最初は僕がつくっていましたが、コーチ陣が選んだものを僕がチェックして最終決断をするかたち、コーチたちだけで選考を行うかたちなど、いろいろなやり方を試しました。そんな中でも、先入観や実績にとらわれずに選手を選んでいこうという信念は貫けたと思います。
オフには、こちらとしてはもう少しチームを支えてほしいと思っていた選手が引退や移籍の意向を伝えてくることもありました。監督になってしばらくは、残ってもらえるように話をしていました。ただ、あるときからそこまで引き止めることをしなくなったんです。僕のところに話を持ってくるときには、決断ができていることがほとんどでしたし、その選手が抜けても、代わりの選手が育っていく機会になるじゃないかと思うようになったからです。そうやって意識的に新陳代謝を求めるようになっていったと思います。
さらなる高みを目指す中で、失われたリコーらしさ
――Actionをテーマに再起し史上最高位の6位に入ったリコーは、翌年も馬渕がキャプテンを務め7位。2018年は濱野へとその役割が引き継がれ、新世代がチームの中心になりました。濱野と同期の松橋は日本代表やサンウルブスのメンバーとしてプレーをする機会を得て、インターナショナルな領域に挑むまでに成長しました。この年はパナソニックにも勝利し(26-17)8位に。
3シーズンにわたって中位をキープできた。そして、もう1つ上のステージにあげたいというシーズンだったのが2020年。「中位の壁」を破っていくためには、チームレベルのスキルであったりナレッジであったり、そういった部分をもっと引き上げなければなりませんでした。選手からもたくさんの意見が出てくるようになった。その結果、情報が盛り込まれたすぎた状態になっていたように思います。その状況で、リコーのアイデンティティとしてのActionという部分は大丈夫だろう、みんなわかってくれているだろうと思ってしまった。
でも、2016年に再起を図ったときに徹底したリコーらしさ、ひたむきさや泥臭さのようなものが、また陰に隠れてしまった。それはスキルを使って後方でボールを回すようなアタックや、不安定だったディフェンスなどに表れていたと思います。シーズンは途中で終わりましたが、納得のいくラグビーができたとはいえませんでした(6試合を戦い2勝4敗となったところで新型コロナウイルスの感染拡大を受けシーズン中止に)。
これは8年間の経験から学んだことなんですけど、それぞれコーチが大事にしているもの、好きなこと、トライしたいことはそれぞれ間違いではないんです。例えば「スーパーラグビーでやっていたこんなアタックに挑戦してみたい」とか、「今のラグビーのトレンドでは、こんなシステムが主流になっている」とか、そういう提案は貴重なものです。新しいラグビーナレッジとかコーチングスタイルは、チームを前に進めていくために絶対に必要です。ただ、そうしたものを取り入れるときでも、「何が一番大事なのか」「リコーにフィットするものは何か」を見極め監督から強く発信して、チームとしての価値観をまとめ上げる必要がある。2020年はそこがうまくいかなかった。
それで、2021年はGM兼監督のGMが外れ僕が現場により近い立場になったこともあり、もう一度、リコーらしさの徹底を発信することにしました。選手全員とミーティングをして、リコーのラグビーをどうとらえているか、何がよくなかったかを聞いてくと、ほとんどの選手から、植え付けてきたつもりだった、ひたむきで泥臭い、倒れてもすぐ起き上がり相手に立ち向かっていくラグビーというものができなかったという後悔の言葉が聞こえてきた。長く監督をやらせてもらってきたのに、自分はいったい何をやっていたんだろうと思いました。
「理解しきれていなかった」という言葉も聞こえてきたアタックは、シンプルなものに立ち戻ることにしました。シンプルでゲインラインを意識した、わかっていても止められないアタックです。そういうものをやろうとヘッドコーチのダミアンたちに伝えました。新しくコーチ陣に加わったヒューイ(ピーター・ヒューワット)も、彼のアタックストラクチャーの哲学がまさに同じ価値観で共感してくれました。また、「ひたむきなリコーのラグビーを目指すそう」ということについても、監督の自分が最初のミーティングだけで話すのではなく、同じ価値観のもと1年間グラウンドの中でずっと言い続けてくれました。
監督というのは、大事なことは率先して言い続けないといけないんだと。また、それを支えてくれるコーチ陣も同じ価値観で発信し続けることが波及するスピードを加速させることを再認識しましたよね。特に今期から新たに加入したピーター・ヒューワットとローリー・マーフィーはコーチングはもとよりこういったメッセージを一貫して発信し続けるという観点で大きな貢献をしてくれました。
「シンプルで一貫したメッセージ」を発信し続けることの重要性
――そして、“BIGGA—Back In Game, Go Again”という言葉が誕生し、深くチームに定着しました。試合中、グラウンドからは、ことあるごとに“BIGGA!”という声が聞こえてくるようになりました。
思いをコーチ陣と共有した後、チームに方針を根付かせるスローガンを探し出すのは僕の仕事。選手やスタッフが互いに口に出し、リコーが目指すラグビーを想起させる言葉はないかとずっと考えていました。選手のリーダーたちにも相談すると、これまでも大事にしてきたActionという言葉でいいのではないかという声もありました。でも、より選手たちがフレッシュに感じてかつパワーのある新しい言葉を使いたかった。
簡単には見つかりませんでした。
“BIGGA—Back In Game,Go Again.”という言葉がどこからきたのかというと、意外に身近なところで出会いました。これはスキルコーチのリッキー(ダミゲン)が使っていた言葉です。彼が以前から選手を鼓舞するときに、BIGGA!と叫んでいたんですよ。それはなんなのかと聞くと“Back In Game, Go Again.”の略だと。それを聞いて、これだ! と思いました。
Back In Gameを略したBIGという言葉は、ラグビーでは時々使われるんです。それにGo Again つまりゲームに戻るだけではなくて、もう一回いくんだという意味が加えられている。そこがいいなと思いました。それで、この言葉を選手たちに刷り込んでいくために、毎日のように使ってくれとコーチにお願いした。選手たちにとって、聞けばパチンとスイッチが入る言葉になるように仕掛けていったんです。シンプルで一貫したメッセージを選手の印象にいかに残し続けるか。このサイクルがうまく回れば、選手のパフォーマンスは変わってくるんですよね。
――そして、2021年はトップ8という結果に終わりました。シンプルなアタックや安定したディフェンス。ラインアウトモールでの決定力やモールディフェンス。スクラムでも多くのチームを上回りました。ディフェンス力がベースだったとは思いますが、各要素で充実を感じられました。
僕も8年間を振り返ってみて、本当に集大成だったなと感じています。選手に出すメッセージも自分なりにはすごくまとまっていたと自負しています。BIGGAという新しいワードをマインドセットとして真ん中に置いて「ディシプリン(規律)」「フィジカリティ(力強さ、身体能力)」「コンピート(競争)」という言葉でつくった三角形で囲む。8年間言い続けてきたことを、凝縮するようなイメージをぶれることなく伝え続けることができたシーズンでした。
さらなるフィットネス。ディフェンスでは「どこでボールを獲り返すか」
――チームは新しいリーグで、トップ4、さらにその先を目指して挑んでいくことになります。
僕はこの壁を破れませんでしたが、ひとつの役割は果たせたという思いはあります。トップ8からトップ4のポジションにいくというのはすごいパワーが必要です。今年はクボタがやってのけましたが、リコーもそういうジャンプアップができると信じています。今年随所で見せたヤマハや神戸製鋼を苦しめたリコーらしいラグビーを、試合を通じて実行できるフィットネスなどはひとつポイントになるのかな。あれだけ愚直で激しいラグビーを80分間貫けるフィットネスを手に入れるのは簡単なことではありません。でも、優勝を争ったサントリーやパナソニックのようなチームに挑んでいくには、それくらいハードなことをするしかないんですよね。
ディフェンスも、場面による使い分けなどもうまくなりかなり安定してきましたが、次のステップとして「どこでボールを獲り返すか」というところが大事。今のリコーは守って、守ってという時間が長いですが、ボールを奪い返すイメージをみんなで共有し、今よりもスムーズにマイボールにできるようになれば、ポゼッションがもっと上がってくるはずです。そうすれば、アタックの機会がもっと増え得点力も高まっていく。そこが次に目指すところじゃないかなと。
――現場とフロントの一体感が感じられた8年間ではありました。
チームの文化をつくるというフェイズと位置づけ、その言葉と行動が合致するマネジメントができた8年間でした。これは引き継いでいってほしいという思いはあります。さらに続けていけば、選手やスタッフが理解しているリコーとはこういうチームなんだというスタイルの上に、新しい指導者のラグビーナレッジやコーチングスタイルを取り入れていけるチームになれるはずです。ただ一方で、勝負事ですからかけてきた8年という時間を考えれば、さらなる結果を残さないといけない時期が来ているとも思います。そういう意味で、新リーグでは1年目から大事なシーズンになる。なんとか頑張ってほしいですね。
――本当に長い間お疲れ様でした。一番記憶に残っている試合をあげるとすると、どの試合になりますか?
うーん。正直に最初に浮かんだ試合となると、監督になって一発目の試合ですね。2013-14シーズンのコカ・コーラウエストとの開幕戦。引き分けたんですよ(27-27)。前半はいい展開だったんです(17-5)。高平(拓弥/FB)がインターセプトから90mくらい走ってトライしたりして。でも後半かなり追い上げられて逆転されたんです。
でも最後にダン(ピータース・ダニエル/FB)が、ハーフウェイ付近からのペナルティゴールを決めて、なんとか追いつき引き分けた。夏場の秩父宮の追い風に助けられて。
あの年は、練習試合で神戸製鋼に勝ったりしていて、監督という仕事の感覚はつかめていませんでしたけれど、結果が出るんじゃないかという気持ちもありました。でも、実際に公式戦を戦ってみたら、こんなに苦しい試合になるんだと。
やっぱり1年目のことは一番覚えていますね。そのあとヤマハでしょ。鈴鹿での雨の中のナイター。最後、五郎丸(歩/FB)に逆転のコンバージョンキックを決められて1点差で負けるんですよ。あの年は、トップリーグで勝つことの難しさをずっと感じていました。練習試合とは全然違うんだなと。それは選手として経験していたつもりだったんですけど、指導者として戻ってきて、改めて公式戦での強度やテンション、意識の違いを痛感しました。
――その次のキヤノン戦が監督としての初勝利。
そうです。キヤノン戦は通算で勝ち越していると思います(4勝2敗)。これはひとつ役割を果たしたのかなと。今年の最後の対戦で負けてしまったので、それは申し訳ないのですが。特別視することなく戦おうという話をしても、知らず知らずのうちに熱を帯びてくるのがキヤノン戦。一度、勝った試合のあとに面識のない社員の方からメールをもらったことがあるんです。「日頃仕事をしていて、『リコー頑張れ!』と自分の会社の名前を大声で叫ぶシチュエーションはありませんでした。こんな時間をつくっていただきありがとうございました」と、かなりの長文でお礼をしてくださって。それはすごく記憶に残っています。
ラグビーに関わり続けていきたい
――さて、リコーでの大仕事を終えました。次のフェイズが始まりますが、さらにその先、これからの人生での目標のようなものは見えてきましたか?
僕はリコーのサラリーマンなので、この仕事が終わればそのキャリアに戻るのだろうとずっと思っていました。その時に、監督というキャリアの中で学んだことは絶対に役に立つはずだと思って一生懸命やってきました。でも最近は、ラグビーに携わる機会を長くいただけたことで、これからもラグビーに関係した仕事に自分の強みを活かしながら挑戦したいなと思うようになりました。どんな立場でもいいので。それを叶えられるように、今後も目の前の仕事に集中していきます。
あとは新リーグでのリコーの活躍を本当に楽しみにしています。次の仕事とはスケジュールが重ならないようなので、しれっと応援席に足を運ぼうと思っています。